実施可能要件
特許法36条4項1号は、「明細書の発明の詳細な説明の記載は、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者(当業者)がその実施をすることができる程度に明確かつ十分に記載したものでなければならない」旨が規定されています。今回は、医薬用途発明の実施可能要件が争点の1つとなった事例を紹介します(令和7年(行ケ)第10058号 審決取消請求事件)。物質が用途の医薬として使用できることを当業者が理解できればよく、薬理データの記載を欠くことから直ちに実施可能要件を満たさないことにはならないと認定されています。
(要旨)この「実施」とは、物の発明においては、その物の生産、使用等をする行為をいうものであるから(同法2条3項1号)、実施可能要件を充たすためには、当業者が、明細書の発明の詳細な説明の記載及び出願時の技術常識に基づいて、過度の試行錯誤を要することなく、当該発明に係る物を作り、使用をすることができる程度の記載があることを要する。そして、本件発明は、既知の医薬品の用法、投与対象者等を特定したいわゆる医薬用途発明であるところ、一般に医薬用途発明においては、医薬の有効量、投与方法等が記載されていても、それだけでは、当業者において当該医薬が実際にその用途において使用できるかを予測することは困難であるから、実施可能要件を満たすというためには、明細書において、当該物質が当該用途に使用できることにつき薬理データ又はこれと同視することができる程度の事項を記載し、出願時の技術常識に照らして、当該物質が当該用途の医薬として使用できることを当業者が理解できるようにする必要があると解するのが相当である。
原告は、①医薬用途発明の医薬用途は具体的な薬理試験結果によって裏付けられる必要がある、②単剤として安全に使用できることが知られている薬剤であっても、併用した場合や高齢患者に対して使用した場合には使用禁忌となることがある(甲30~32)、③実施可能要件の判断においては、新規性・進歩性があり、従来技術に比べて優れた属性や効果を有する発明につき、当該優れた属性や効果について、当業者が実施可能であると理解できるだけの裏付けが明細書に記載されていることを要すると主張するが、以下のとおり、いずれも採用することができない。上記①について、前記(1)で述べたとおり、物の発明である医薬用途発明については、明細書の発明の詳細な説明の記載及び出願時の技術常識に照らして、当該物質が当該用途の医薬として使用できることを当業者が理解できれば足り、薬理データの記載を欠くことから直ちに実施可能要件を満たさないことにはならない。そして、本件発明について、明細書の記載及び技術常識から当該医薬用途に使用できると解されることは、前記(2)及び(3)で説示したとおりである。上記②について、本件発明はスルホニル尿素とボセンタンの併用(甲30)を技術的特徴とするものではない。また、原告が指摘する証拠(甲31、32)には、スルホニル尿素とメトホルミンの併用、あるいは高齢患者に対する長時間作用性インスリンの使用が禁忌である旨の記載はなく、当業者が、高齢患者に対してリナグリプチンと長時間作用性インスリン、あるいは両薬剤に加えてスルホニル尿素及びメトホルミンを併用して投与した場合に、著しい副作用又は有害事象が発生すると理解したことを認めるに足りない。上記③について、実施可能要件(特許法36条4項1号)は、発明の詳細な説明に、当業者が容易にその実施をできる程度に発明の構成等が記載されていない場合には、発明が公開されていないことになり、発明者に対して独占的、排他的権利を付与する前提を欠くため、発明の詳細な説明の記載の要件として規定されていると解されるのに対し、新規性・進歩性(同法29条1項及び2項)は、公知発明や、当業者が公知の技術から容易に想到することができた発明に対して独占的、排他的な権利を発生させないようにするために、そのような発明を特許付与の対象から排除するものであり、特許の要件として規定されている。そうすると、実施可能要件を充足するか否かとの判断は上記の観点から行われるべきであり、その枠組みに新規性・進歩性の判断を取り込むべきではない。

